らきがき帳。2号

推しに頭やられた腐女子の語り。

クロス・マリアンは一体何を諦めてるのか

クロス・マリアンは一体何を諦めてるんだろうか。


「クロス・マリアンどちらかというと現実で関わりたくないけど嫁には欲しい」とか頭悪いこと言う奴の妄言なので、“書いてるやつのIQは3”という心持ちで読むのがオススメです。


多分師弟の基本的行動理念は、そう離れたものじゃないと思うんです。
そもそもD.Gray-manという作品の主題が「立ち止まるな、歩き続けろ」。

アレン・ウォーカーが「例え希望が僅かでも、その希望に賭けて諦めずに進み続ける」スタイルだとしたら、クロス・マリアンは「内心諦めたまま進んでいる」気がしてならないと言うただそれだけの話。

元帥の弟子に対する「見せかけばかりの偽善者」という評価、
人もアクマも全て救おうとする
→1人の人間が全てを救おうとするのは到底無理な話、別にアレンはそれが分かってないわけではない。(=「偽善者」と評する理由)
「見せかけばかり」は、そうは言いつつボロボロ泣いてるからかなぁ(雑)。キャラブックでは「希望の他に諦観や絶望など、様々な感情が含まれていた」とあるから、多分それだろう。
アレンの分け隔てない博愛主義的な側面を否定するキャラクターは0ではないんだけど、面と向かって「不可能なことと理解した上で全てを救いたいと言う、それは偽善だ」と指摘する人がいなかったんだよね。
チャオジーの否定はもっと別のもの。主観的で、感情的で「敵に慈悲をかけるのか」という人間的なもの。

客観的で現実的で冷静な指摘。

この指摘ができるクロス・マリアンは何かを諦めてるんじゃないだろうか。

「頭がいい人」ってIQが高いとか凄いものを発明できるとかではなく、視野が広い、考えないということができない人だと思ってるんですね。
無自覚な視野の狭さや、考えるということをしない(思考停止)というのはある意味強い。相手を理解することはなく「敵」は「敵」のままだし、そもそも自分の置かれた状況を理解しないで済む。
例えばアルマ編の終盤途中まで、神田は思考停止してただアルマを破壊しようとした。
ついでにカーズは考えるのをやめる。(突然のジョジョ)
視野が広いとその分多くの立場の人間・出来事・事象が見えるし、そうなると必然的に頭を悩ませることも増える。
自分の視野が狭いことに気づかないのはある意味幸せではあるし、考えることをしない,やめるというのは楽な行為だ。

元帥には幸か不幸か考える時間はいくらでもあったわけだ、最短でも30年。多分「考える」ことはやめてない。そうでなければ、アレン(宿主)という人格に何も思うことはないはず。

「考えることをやめる」に近くて異なる精神的防衛手段は、「期待することをやめる」だと思う。希望を持つことをやめる、期待をしない、諦める。希望を持たなければ絶望することはない。
達観した見方、物事にこだわらず動じないスタンスって結局のところ、「まぁそういうものだ」と受け入れることだ。
受け入れるって、何かを「それ以上でもそれ以下でもない」と判断・認識することだと思う。

要は、弟子は「自分が進むことで後の誰かに繋がるかもしれない」って言って動くけど、師匠の方はどっちかっつーと「進むしかないから動いてる(た)」って感じがする、そこに希望を持っているような素振りは見受けられないって話なんですね。
何を諦めて生きてるのかなぁコイツ。自分が人の定義に戻ることか、アレンという人格が消えずに残ることか、聖戦が終わることか…もっと別のことなのか。
もしそうだとしたら、例え偽善と言われても諦めずに進もうとする弟子はどれだけ眩しく見えるだろうか。

諦める、受け入れるという選択肢は精神的な防衛として必要な手段ではある。
「どこまで行っても…」「できればお前には…」の言い方からして馬鹿弟子が諦めるはずがないという認識はあったと思うので、師匠があの提案をしたのは進むことしか知らないバカに他の道もあることを一応示すためだったのかなぁ、と。
っていうか人もアクマも救おうとする博愛主義の弟子に、「自分のことは救わないでいいのか」って指摘するのが目的だったらもう色々ダメなやつですね。


ところで師匠はちょいちょい弟子に「一人で歩け」と言う。
ティムに残したメッセージでは「歩け独りで まだ諦めてないのなら」。
222夜では「だったら歩け ひとりで」。
弟子が1人で歩けると、マナの仮面を被り始めた頃から思ってるんだと考えると、こう…アレだ……凄いね…(語彙の死)
228夜事件以降、突然長文吐いて勝手に死ぬのやめたい。
よぉし、話がまとまらなくなったぞぉ!!解散!!!